9月が終わる

今日で9月が終わる。


明日になれば、私の大好きな人はアイドルではなくなる。



私が、錦戸亮ちゃんがアイドルであることにこだわるのは、アイドルだから価値があったというわけではない。明日からアイドルではなくなるけど、この先もずっとこの人のことは好きだと思う。絶対とは言い切れないけど。



じゃあなぜアイドルであることにこだわるかといえば、理由は私自身にある。

幼少期から自己肯定感が低く、10代、特に中学生時代は本当に辛かった。今思い返しても2度と戻りたくない。ようするに、ろくな思春期を送らなかった。周りにはジャニーズが好きな子たちもいたが、自分には何となく無関係だと思っていた。

いわゆる陰キャだった私には、あのキラキラした世界はあまりに眩しく、私のような根暗な奴が足を踏み入れてもよい世界には見えなかった。


そんな感じで10代を過ごし、20代はどっぷりとバンドの音楽にハマった。バンギャだった時期もある。アイドルとは対極の世界が、私にはちょうどよかった。あとはまぁ、周りにジャニヲタもいなかった。


とはいえ、アイドルを馬鹿にするようなことはなかった。これは胸を張って言おう。当時の私が好きなものはメジャーなものではなかったが、メジャーなもの、世の中に広く好まれているものは、好まれるだけの理由があるからだと思っている。たまたま、自分が好きではない、それだけだ。

あと、ニノちゃんの情熱大陸を見たのも大きかった気がする。周りの求めているものに確実に応えられるってすごいと思う。あの時、アイドルってすごいと思った。



そんな陰キャが、あれよあれよという間に、まさかの30代でジャニヲタになった。


ジャニヲタになってビックリしたのは、あまりに素直に好きな人に対して「可愛い!」「かっこいい!」と言える自分がいたことである。

陰キャで卑屈な私は、好きな人たちに対してストレートにそんなことを言えると思っていなかった。なのに気づいたら、テレビの前で、コンサートで叫んでいた。「亮ちゃん可愛い!」

すごいなぁと思った。アイドルを好きになる資格なんてないと思っていた自分が、こんなにも素直に、というか条件反射みたいに、好きだの可愛いだのかっこいいだの言えるのだ。


なるほど、アイドルってそういう存在なんだ。

30代にして、新たな発見だった。


だから、私にとって、アイドルである錦戸亮を好きになったことは、とても価値があることだった。卑屈な自分、可愛くない自分が、誰かに対して思い切り大好きだという気持ちをぶつけられる、ぶつけていいんだと思えたこと。

私はいわゆるリア恋をアイドルに対して感じることはない、ただひたすらにアイドルとして好きなだけなのだが、これだけは、こう表現するしかないなと思う。間違いなく、錦戸亮は、私がアイドルとして好きになった、“初恋の人”だ。いろいろ考えたが、他に表現のしようがなかった。



今日で9月が終わる。


明日には亮ちゃんはアイドルじゃなくなる。

きっとこれからも大好きだけど。

でも、アイドルの亮ちゃんとは、さよならだ。


さみしい。